野の窯だより  〜4月〜





 ある日。
 富岡市立美術館に行った。何度も見ている縄文のヒトが作った土器をゆっくりまた見た。その形は実用的でありつつも自然に対する畏怖や祈りに満ちている。今では装飾のように見えるものも暮らしの中から生まれた必然的な祈りの形なのだろう。
 ある日。
 埋蔵文化財調査センターに展示している土器を見に行った。節電された薄暗い館内にごろごろと大量の土器がころがり、太古のヒトの時間が静かに流れている。レプリカの土器にはくるみの実がいっぱいに盛られている。
 今よりもずっとずっと自然を恵みとして享受し、そして今よりもずっとずっと自然が脅威でもあった時代に作られたカタチ。それなのに何故かただ素直に明るい。私はたぶん、そのような明るさに触れたがっていたのだと思う。3.11以後、物をつくることと、現実との回路がぷっつり絶たれたようで、心がどこかでひどく傷つき壊れていることを感じてきた。一瞬にして失われた万単位の死者の数にも、うちひしがれてしまうのだ。
 土器はやさしく、か細い音楽のようだった。
 わたしに出来るささやかな支援や節電等のわずかな努力は心がけながらも、今私がなすべきことは、私は私で元気に仕事をすることなのだろう。
 四月。庭にサンシュユの花がやっと今年も咲いた。



ふきのとう。うれしい恵みの春一番
この季節だけのごちそうです。

ベニマシコ
もうすぐ北に帰ってしまいます。



サンシュユが咲きました




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